昭和世代の常識はもう使えない
息子は、何年か前、とある会社に入社した。
新入社員の頃は、重役さんと直接お話ができるような仕事をしていたらしい。
息子の話によれば、その重役さんと、実家に入れるお金のことが話題になったそうだ。
息子はその重役さんに、「そうは言っても(家にお金を入れたとしても)、子どものために貯金していてくれるものだよ」と言われたそうだ。
それが我が家にも当てはまるものだと勘違いして家から独立する時には、そっくりそのまま家に入れたお金をもらえるものと思ったらしく、その重役さんの言葉を引用してお金を要求してきた。
ホントに呆れた話だ。今でも腹立たしく思い出すことがある。
その重役さんが何歳くらいなのかはわからないが、おそらく昭和の高度成長期に子ども時代を過ごした人なんだろう。あるいは、もともと裕福な家に育ったのかも知れない。
おそらく自分も親からそうしてもらい、子どもにもそうしてあげたんだろう。
そういう時代錯誤な人が、若い世代に、呆れた勘違いを植え付けているというのは、本当に不幸なことだ。もっと今の時代の現状をきちんと把握してもらいたい。
私たちのような、バブルの恩恵さえも受けていない世代は、教育費だけでもアップアップだ。
概算でも、純粋に教育費だけで1千万円はかかった。下の子は、特殊な大学だったから、その倍以上はかかった。2人で3千万円くらいだ。
今思えば、そんな大金をよく工面できたものだ。もう老後資金さえ残っていない。
我が家の子どもたちはもう独立したが、就職した子どもに、自分の家賃光熱費分を請求するのは当然だろう。出来るだけ早く独立してほしい。援助も一切できないし、する気もない。そんなことをしていたら、自分たちの生活が立ち行かなくなるのは目に見えているからだ。
希望があった昭和の古い世代の「常識」は、もう使えない。使えない「常識」を若い人に植え付けるのはやめてもらいたい。
人間関係は『ご縁で始まり相性で続く』
ここ1年ぐらい、最も苦手なタイプの人との付き合いが続いていた。
私は、家族でもきちんと伝えなければわからないと考えるタイプだが、その人は、同じような属性であれば、説明しなくても、自分の置かれている状況は理解されると思って、思いやる言葉や共感の言葉を期待するタイプ。
私は、例えば女性などというようなカテゴリに対しての固定観念(バイアス)をできる限り排除した言動を心がけているが、その人は、不用意にそういったバイアスだらけの言葉を使う。
今考えれば、出会った最初に、自分の家への訪問を提案された時から違和感は持っていた。
私は、何十年付き合っても、ほぼ相手の家を訪問することはない。
もう20年以上の付き合いの友人が、パートナーを亡くした時に、お線香をあげに行った時くらいだ。
家への訪問が悪いということではない。
人それぞれだから、構わない。
その時も、その人の家への訪問は断って、喫茶店で会うことになった。
しかし、その後も、話をするたびに違和感が続き、とうとう我慢の限界にきてしまった。
やりたいと思っていたことが近い内容だったので、なんとかやり過ごしてきたが、もうやり過ごせない程になったため、関係を解消した。
問題が起きて何日か経ち、やっと静かな日常が戻ってきて、今はとってもほっとしている。
そう思っていたら、東京新聞の生活情報誌「暮らすめいと」8月号の「おうちで母を介護して」というコラムの冒頭に、「私は、人間関係は『ご縁で始まり相性で続く』と思っている」と書いてあるのを見つけた。
こうも書いてある。「相性の悪い人と一緒にいると、ストレスがたまるばかりでいいことは何もない。」
このコラムを読んで、「そういえば最初から違和感ばっかりだったなー」と思い出したのだった。
このコラムがあって救われた。
ちなみにこのコラムには、夫婦関係や親子関係のことも書いてあるので、悩んでおられる方は、ぜひお読みになてみてください。
家族だってそれぞれ自分の考えも事情もある
パートナーや子どもは、それぞれ、自分とは別の背景や歴史を持ち、家族以外の別の人間関係を持ち、別の価値観と事情と感情を持った、自分とは別の人だ。
夫は、仕事中は家族とは別の人たちの中にいて、いろいろなことに接し、いろいろな考えや感情を持つ。その日々の中で少しずつ考え方や価値観が変化していく。
妻も、家族以外の人たちと接する中で、日々いろいろなことがあり、いろいろなことを感じながら、価値観が変化していく。
子どもも同じだ。
自分とは違う時間を過ごしている自分とは違う人間なら、考え方や感じ方が違うのは当然だろう。
同じ時間を過ごし、同じものを見ても、同じように感じるということはまずない。
なぜなら、過去に過ごしてきた中で経験したことが違うからだ。
時々、自分の親やパートナーや子どもが、自分の言うことを聞かないと嘆いている人がいる。最近もそういう人に出会った。
その人は、親にコロナ感染が心配だから出歩かないようにと何度も言っているのに、聞き入れてくれないと言っていた。
もちろん心配はわかるが、なぜ親だからと言って自分の言うことを聞くはずだ、または、聞くべきだと思っているのか不思議でならない。
親は親なりの考えや価値観があって自分の行動を決めているはずだ。高齢になって判断力が衰えているとまわりから見えたとしても、自分なりの考えがあるはずだ。その考えを否定して自分の考えを押し付けるのを当たり前だと思うのは、いささか失礼なのではないだろうか?
同じようなことを、パートナーや子どもとの間でやってはいないだろうか?
夫婦なんだから、自分のためになんでもやってくれるはず、いつも自分のことを考えてくれているはず、と考えていないだろうか?しかし、自分のことを振り返れば、それは無理だとわかるだろう。
また、子どもはまだ判断力がないのだから、親の言うことを聞くべきだという人もいる。もちろん乳幼児なら判断力はないだろうが、自分の意思や気持ちはある。まして、自分なりの考えを持つようになれば、その考えを尊重されたいのは当然だろう。
家族が相手だと、なぜか、相手が他人ならやるはずのない失礼で図々しいことを平気で言ったりやったりする人が多い気がする。
例えば、相手の事情も考えず、いつでも自分の要求を満たしてくれると思って要求をしてきたりするし、自分と価値観や好みが同じだという前提で自分の話に共感することを押し付けたりしてくる。そして、家族なんだから許されると思っている。
受け入れる余裕も受け入れる意思もあるなら問題はないが、本当は不満に思っているのに、いろいろな理由で言えずに我慢している人がたくさんいるだろう。私もそうだった。本当はすごく不満なのに、妻や母親は、夫や子どものために、ほとんど全ての、ほんの些細な願いまでも我慢しなくてはならないと思い込んでいた。
実際、少しでも、妻が自分の意思や希望を口にしたり、行動したりすると、家族や周りの人に非難される。
しかし、誰だって、失礼な振る舞いをされたり、勝手に自分の時間を使われるのは不愉快だ。
妻だからといって、夫や子どもを優先しなければならない理由はどこにもない。
家族がそれぞれ、仕事や学校とは別に、家庭内の役割を果たせばいいだけだ。
夫も子どももお客さんではないのだ。
家族だからといって、相手の事情や気持ちを無視していいはずはない。いや、家族として一緒に暮らしているからこそ、いい関係を保つためにも、他人以上に相手の気持ちや事情を尊重しなければならないと思う。
しかし、なぜか、家族のために自分を犠牲にすることがいいことだと思わされていて、そうすることに慣れてしまっているが、そんなことをしていれば、誰だって不満がたまるから、やめた方がいいと思う。
まずは、家族の犠牲になることをやめ、自分で自分を尊重し、丁寧に扱ってあげることを練習すれば、尊重されることの気持ちよさがわかる。
尊重される気持ちよさを知ることができれば、誰に対しても丁寧に相手を尊重する接し方しかできなくなるはずだ。
家族が、気持ちよく過ごすために必要なことは、「尊重」だ。
家庭内の家事は仕事ではなく専業主婦は職業ではない
家事は、人が生きていくためにやらなくてはならない、最低限の営みで、男だからやらなくていいというものではない。
それなのに、なぜ女だけがやらなくてはならないことになっているのか?
男は、女に自分の世話をさせるために、仕事を奪い、経済力を奪い、自尊心まで奪う。
自尊心を奪われた女は、男に言われたまま、男に従う。
DVは、その究極の例だ。
しかし、完全に自尊心をなくしてしまった妻は、それ程はいない。
自尊心を捨て切れないから、家事を自分だけが背負わされていることに不満を抱き、経済力を奪われていることに不安を抱く。
昔、知り合いの市議会議員に、男女共同参画社会基本条例のことで要望した時、「専業主婦になりたい人もいる」と言われた。
確かに、専業主婦を志望している若い女性がいると聞いたことがある。
働かなくても生活できるならという打算的で表面的な利益を考えれば、そう考えるのも無理はない。また、子どもを育てながら仕事も持てるような社会にもなっていない。
しかし、長い間には、疑問や不満を抱くようになる。または、子ども以外に生きがいがなくなり、過干渉になったり、子供に依存状態になったり、独立した途端に見捨てられた気持ちになってうつになったりする。
それに、自分の人生や生活を、ひとりの人に全面的に委ねるなど、こんなに危険なことはない。例えどんなに信頼できる人だとしても、病気や事故で働けなくなったり、亡くなることもあるからだ。
それでは、妻も子どもも不幸だ。
昔は専業主婦を職業欄に書く習慣があったらしいが、専業主婦は職業などではない。
だいたい、賃金が支払われない職業があるはずがない。
賃金が支払われないなら職業でもないし、やらなければならない理由もない。
会社員なら、病気で長期に休むことになれば、傷病手当というものが支給されるが、妻は病気になってもなんの保障もない。夫の「優しさ」とか「誠意」だけが頼りだ。そんなあてにならないものはない。
あてにならないものをあてにするしかないから、不安や不満がどんどんとこころの中に溜まっていく。
男が優遇される男社会で仕方なく選択している、なんの社会的権利も社会的保障もない「専業主婦」は、家事や育児が原因で病気になっても、労災認定もされない上に、離婚される例もある。
だいたい男は、家にいて大したこともしてないんだから、家事だの育児だので病気になるはずがないとしか考えていない。だから、保障の制度もない。
病気になっても保障もない上に、病気の妻は離婚されても仕方ないという世の中で、専業主婦をやらざるを得ない状況は、実に不平等で不当だ。
専業主婦は職業などではないし、家庭内の家事は仕事ではない。家事は生きていくために最低限必要な営みであり、男だからやらなくていいというものではない。
女性が人として当たり前の権利を確保するためには、男性も家事と育児をする必要がある。
家事や育児を女性ひとりに背負わせることは、女性の権利や自尊心を奪うことだとすべての人に自覚してもらいたい。
各家庭で女性差別に対する意識はだいぶ違う
女性差別についての感覚は、それぞれの家庭でだいぶ違うようだ。
以前、女性4人(70代2人、50代ー私、40代)で話す機会があった。
結婚にまつわる話では、「早く結婚しないと精神や体に問題がある(昔は「かたわ」と言われていた)と思われた」というエピソードが出た。
70代の女性のその話に「私も親にそう言われた」と賛同したのに対して、もう1人の70代の女性は、聞いたことがないという。
40代の女性は、(もちろん)全く聞いたことがなさそうだった。
同じ70代でも聞いたことがない人がいるのに対し、20近くも若い50代の私は、昔はそう言われるのが普通だったと思っていた。
私の家は、母方の祖母が、私の第一子が男だったからといって、わざわざ電話で「でかした!」と言ってくるような感覚の家庭だ。
そういう感覚の親に育てられた私の母が、女性差別的なのは、全く納得できる話だ。
ちなみに、私の母は、女性差別に限らず、差別的な発言が多い人だった。
その母に反発していたはずの私も、家事は女がやるものだとの刷り込みには抵抗できずに背負い込んでしまい、ついにはうつ病になってしまった。
やはり、親の影響は大きいということを再認識した出来事だった。
今、子どもを育てている人は、女性差別に限らず、例えば外国人の方、障害を持っている方などに対して差別意識を持っていないか、改めて意識してもらいたい。
そのあなたの意識が、子どもに影響を与えている。
子どもが、差別する人間になるか、差別しない人間になるか、親は確実に影響を与えているのだ。
台所にしか居場所がなかった自分の惨めな過去を思い出すたび怒りを抑えられない
我が家の間取りは、6畳2部屋と、4畳半が1部屋と、2〜3畳くらいの台所だ。
私は、2年前から、息子の部屋だった4畳半と娘の部屋だった6畳間の間にあるふすまを外して、合計10畳半の部屋をひとりで使っている。
もうひとつの6畳間は、20年近く、夫が使っている。
かつては、ダイニングとも呼べない狭い台所だけが、私の唯一の居場所だった。
寝るときだけ、娘の部屋を使っていた。
今は純粋に台所としてだけに使っているこの場所を眺めるたびに、ここに押し込められて、炊事や洗濯をさせられていた日々を思い出して怒りがこみ上げてくる。
この怒りは、どこにぶつけたらいいんだろうか?
夫はもう、償う意思を示しているので、夫にぶつけるわけにもいかない。
息子には、何も伝えてはいない。なんだか男社会にどっぷり浸かってしまっているような言動が多いので、伝えても受け入れられないだろう。
娘には、こんな理不尽な状況に置かれて、すごく怒っていることは、伝えた。
それでも、怒りは、まだまだ治まらない。
今は、子どもたちとは会っていない。
会わないで済むように手配してある。
会えば、過去の怒りが蘇るからだ。
いくら子どもだからと言っても、あまりにもお客さん扱いしすぎたことは、反省すべき点だった。
しかし、世の中に蔓延している、男目線で男にとって都合がいいように作られた「優しい」「慈愛に満ちた」母親像を期待しているような言動をする子どもたちの期待には、答えられないし、答えたくもないので、会わないで済むのは、とても開放された気分だ。
ただ、台所を眺めるたびに湧き上がる怒りは、どうにもならない。
本当に、この26、7年の結婚生活の苦しみと怒りが、あの台所に詰まっているのだ。
ドラマにしろCMにしろ、マスコミでプロデュースを担当するのは、いまだに多くのケースが男性だ。男性視点で男性が作ったテレビやラジオから、「優しい」母親や、喜んでキッチンに立つ妻やなど、過剰に家事や育児をする母親を美化した映像が消えない限り、私の怒りは、治まることはないだろう。
どうか、これからの女性には、私と同じ思いはして欲しくない。
女性にも、存分に自分の能力を育て、発揮するチャンスがある世の中になってもらいたいものだ。
妻とふたりの生活になることが怖いMさんに言いたい
奥さんと二人っきりの生活になるのが怖いんだって?
そのために息子が出て行かないように引き止めてるんだって?
息子の人生はMさんのものじゃないよ
うちがうまくいってる理由、教えてあげようか?
それはね、夫が、自分が家事育児を放棄したことで、私を社会から締め出し、私の能力を活かすチャンスを奪ったことを心から反省して、その償いとして家事を引き受けているからだよ。
男は「仕事」っていう都合のいい理由で女に家事育児を押し付けて、女を社会から締め出してるんだよ。
そんなこと、はっきりと言葉として意識してる人は、男でも女でも、そんなにはいないだろうけど、厳然とした事実です。
男と同等に働ける能力があるのに、家事育児を背負わされることで、働けなくされ、経済的に弱い立場に置かれることで、夫には本当に言いたいことは言えずにいる。
そして妻も、なんとなくモヤモヤした不満に悩まされて、夫や子どもに、何が原因だかわからない不満をぶつけるから、男に「地雷を踏んだ」とか言われて理解されない。
でも、根本は、男が作った男が優遇される男中心社会から不当に締め出されてる怒りが原因なんだよ。
Mさんも男なら、男が優遇される男中心社会でいい思いしてきたことを自覚して、女を社会から締め出してきたことを本気で反省しなさい
妻との信頼関係はそのあとでしかできません。
女とか妻とか母として見ないで、〇〇さんという一人の人間として、尊重すれば、妻とのいい関係もできるはずです。